昨年、3回にわたって行ってきた勉強会『保養とごはん〜家族を放射能から守る食事法〜』の文字起こしが完了しました。
この勉強会の参加者の中から数人の方が手を挙げてくださり、協力しあって文字起こししてくださいました。
教える人と教わる人という関係ではなく「一緒に放射能対策を学ぶ者同士」としての共同作業は本当にありがたいものでした。
本当にありがとうございます。
これからこの原稿を、加筆修正しながらブログに(どんなペースになるかわかりませんが)連載していって、いずれブックレットなどにできたらと思っています。
第一回: 『陰陽五行で見る放射能と食事の知恵』
自立は孤独から生まれない
海旅Campという疎開保養キャンプを2012年から6年やっていて、今年7年目を行おうとしています。
「ひとつのおさら」の西村和代さんとは東京で出逢いました。
とあるイベントで放射能や被ばくについてのとらえ方や、やろうとしていること、やっていることなどを話したら、出逢ったその日に今日のイベントをやろうと言ってくれて、それも相当明確に。
参加費は1万円くらいで、被ばく対策、料理や考え方の勉強会なんだけど、そこで集まったお金を海旅Campの活動費にできたらいいじゃないかと。
その提案を僕はすごく良いと思った。
今は放射能にすごく関心の高い人でも、自分ひとりのことにしてしまう。
それを人に広めたりしない。
けれど、ここは非常に重要なポイントなんだけど、知っている人と知らない人との間で、ほぼ必ず何らかの溝が生まれる。
言っていいのだろうかとか、炎上するのではないかとか、バッシングされるのではないかという心理的ブレーキが働く。
わかってほしいという思いが強いからこそ、その思いを強く後ろに引きすぎるか、強く前に出しすぎてしまう。
そして、気後れしてしまったり、逆に言い過ぎてしまったりする。
そして溝が深まる。
なぜ大事なことを伝えようとした時に、相手に理解されないとへこむかというと、自分がそのことを大切に思っているから。
自分が大事にしていることをいかに守りながら、オープンにするかは、生きる上で非常に重要なことだと思います。
なぜなら、自立は孤立からは生まれないからです。
孤立しないようにすること。
価値観の違う者同士が共生することや、学んだことを周りに広めることは、生きる上で大事な知識をたった一人で持つことよりも大切なことだと思います。
一人で健康オタクになっても仕方がありません。
自分ひとりでは衣食住の全てを作れないんだし。
僕たち人類は今、コミュニケーションスキルを学んでいる最中だと思います。
知るだけではなくて、自分が何かを知ることが誰かの役に立つというつもりで一緒に学んでいきたいと思います。
そういう意味でペイフォワードというか、「誰かにカンパする」という意識の人を集めるというスタンスで勉強会をやろうというのが、和代さんからもらった提案でした。
それで僕もやってみようと思えたので、チャレンジすることになりました。
「証拠を出せ」におびえることはない
放射能とは何かとか、被ばくに対してどういう対策ができるかについて、みんなでもっと堂々と語っていきたいと思います。
たとえば今は、薬機法などの制限があって語る人は少なくなりましたが、昔から梅干しはお腹の薬と言われています。
それに対して「エビデンス(証拠)を出しやがれ」という人はいたかもしれないけれど、「ほっといてくれ。うちはこれでやってんだよ」って言って、みんな梅干しを食べてきました。
母ちゃんが「熱が下がらなかったらキャベツかぶっていなさい」と言って、「エビデンスはどうなんだ」と息子が言ったとしても、「うっせえ、かぶっとけ」と言ってかぶせてきました。
昔からずっと続いてきた日本の伝統的な民間療法は、みなそういうものでした。
そこに科学的エビデンスが乗っかることで、より広まりやすくなっていくだけで、エビデンスが絶対条件ではありません。
科学的エビデンスの前に、実践の積み重ねがありました。
科学は、実践を裏付けするための補助機能を担っていました。
それが今、被ばく対策となると、「証拠を出さなければ実践もしてはいけない」くらいのバッシングがネット上を飛び交っています。
彼らの多くは「放射能対策は必要ない。なぜなら放射能によって健康障害は生まれないのだから」と言いたいのだと思います。
これは、洗剤を売りたいメーカーが「洗剤なしで洗濯するな。洗剤なしで洗濯できる証拠を出せ。」と言っているようなもので、スルーしたほうがいいと思います。
スルーはボイコットと一緒です。
社会を変えるためのあまたある手法の中の一つは、ボイコットです。
反応することで相手にエネルギーを送ることになる。
そうすることで、望まない形で相手は力をつけていく。
ほうっておくことで、相手にエネルギーを送らないこと。
そうすることで、エネルギーをもらえない力は弱っていきます。
僕たちはすでに被ばくしている。
被ばくから生き延びようという気のない力に付き合っている暇はないのです。
自分で実践しエビデンスをつくる
今のところ、まだ放射線防護学は100年も経っていないくらいの、日の浅い学問です。
だからお互いに試していきたいのです。
「私は味噌汁を飲んで試してみたいんだよね」というくらいのノリで、実践をする前からあまり議論に乗らないでほしい。
実践は継続が命です。
淡々と被ばくと向き合っていくこと、淡々と実践を積み重ねていくこと、放射能から子どもたちや自分たちの体を守りたいと思う人が、まず自分でちゃんと経験を積んでいくこと。
その経験を分かち合うこと。
そして、今の時点でわかっていることもあるので、それをちゃんと学んで、実践してどうだったかということを自分の体を使ってエビデンスを作っていきたい。
なぜなら、エビデンスとは実験の結果だからです。
自分がマウスになったつもりで、自分の免疫力を上げてみるというのをやってほしい。
今回は、そのお誘いです。
先輩の言葉を血肉にする
今回、僕は参考文献をたくさん持ってきました。
なぜかというと、誰が言っていたかわからない話をするのはフェアではないと思ったからです。
「冨田さんが言っていたこと」だけでは、事実としてぼやけ過ぎています。
だから、今回の話の元ネタを持ってきました。
これらの本を僕は何度も何度も何度も読み返しました。
1回読んだだけで「わからない」という人がいますが、「わかってたまるか1回で!」と思っています。
僕はこれらの本を場合によっては10年以上読み続けています。
だから、本はボロボロです。
生きる上で大事なことは一生を通じて学び続けたほうがいいし、1冊の本を一生読み続けてもよいと思います。
被ばくのことは、そのくらい大事なことです。
これらの本は、最初は訳が分からないかもしれません。
じゃあ誰が粘り強く読むのでしょう?
それも人任せでいいのでしょうか?
僕は、それは嫌なんです。
被ばくのことを、次の世代にたらい回しにすることは絶対したくないんです。
次の世代はこれらの本を読まなくてすむように、僕らの世代で引き起こしたテーマについては、僕らの世代でしっかり咀嚼して、肚に落として、肚を決めて向き合っていきたい。
だから、何度も何度も読んで、自然に自分の言葉になるまで粘ります。
今日、僕はこれらの本を朗読したりはしません。
けれど、僕なりにこれらの本から学んだことはお話します。
そして、元ネタは紹介します。
皆さんにも自分の言葉で話してほしいから。
もちろん僕の言葉をパクってもらっても、自分流に変えてもらっても構いません。
学問とはそういうふうに育てていくものだと思っています。